
4月8日の花まつりに想うこと 二一世紀の「天上天下唯我独尊」
とかく自分さえ良ければよいという自利主義、自己中心の誘惑に駆られやすい。しかしこれは目先、得(とく)をしたような気分にはなっても後味(あとあじ)が悪い。利他主義の実践こそが「こころ晴(は)れ晴(ば)れ」となる。自利主義の「損得という迷路」に足を取られるよりも、利他主義の「幸せの大道」を選択したい。
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とかく自分さえ良ければよいという自利主義、自己中心の誘惑に駆られやすい。しかしこれは目先、得(とく)をしたような気分にはなっても後味(あとあじ)が悪い。利他主義の実践こそが「こころ晴(は)れ晴(ば)れ」となる。自利主義の「損得という迷路」に足を取られるよりも、利他主義の「幸せの大道」を選択したい。
心の病は 家族が 座敷牢を作って 昔は 許可を得たうえで 監置していた なぜ現代日本人はこんなにもこころの病にかかってしま...
日本では古くにはこころの病をもつ人びとを社会に受け入れて共存する文化がありましたが、西洋医学の広まりとともに失われてしまいました。では、ヨーロッパではどうだったのでしょう。ヨーロッパにおいても、古代ギリシャ・ローマの時代には「狂気」は単なる病気ではなく、超自然的なパワーを宿したものとして畏怖の念で見られていたようです。
日本においてはこころの病をわずらってしまったのは人間ならざるものが「憑(つ)いた」のが原因であり、元の人間に非はないとする考え方が主流だったようです。これを邪険にあつかえば、たたりや災いがあるかもしれません。そのため、そのような状態になってしまった人を社会が殺したり迫害したりすることはなく、むしろ丁重にあつかっていたのではないでしょうか。
なぜ、日本は先進国でも飛びぬけて精神病院が多いのか、今後の精神医療のあるべきスタイルとはいったいどういったものなのか――皆さんとその答えを探っていくうえで、ここからはこころの病を抱えた人たちが社会のなかでどうあつかわれてきたのか、歴史的な経緯からみていきたいと思います。
こころの病をかかえた人を社会で支え共存していくのは、日本でこそ機能するシステムかもしれません。 わが国は戦後、欧米の精神医療システムを採用しそのまま今日まできましたが、そろそろ「日本の精神風土にあった精神医療のかたち」を考え、移行すべきときであると、私は考えます。
通商や交易によって成立した社会では、あいまいさを許さず敵か味方かを明確に区別するシステムが出来上がりました。ヨーロッパはどうかというと、気候は湿潤と乾燥で、狩猟と農耕と牧畜によって成立した社会です。そこでは理性的・合理的なシステムが出来上がりました。
いま、うつやさまざまな依存症に悩む人が増えているのも、大もとを探っていくと社会のありように原因があるはずです。私は現代社会の人間関係の希薄さや、精神的に大人になりきれないまま社会に出てしまう人が多いこと、貧富の格差が拡大していること、全体的に豊かになり嗜好が多様化したことなどが原因ではないかとみています。
ストレス発散のための買い物がやめられず、病的に借金を膨らませてしまう人たちが出てきました。いわゆる「買い物依存症」は単なる“浪費癖”と見られがちですが、歯止めが利かず社会生活が送れなくなるまで繰り返してしまうのは立派にこころの病です。
脳も臓器の1つですから高齢になれば記憶・知能を中心に、意欲や思考・感情等さまざまな機能が低下するのは当然です。いかに高度な医療をしても老いに抗うことは不可能ですが、認知症の進行を遅らせあるいは症状とうまく折り合いをつけながら、できるだけ社会のなかで余生を過ごせるようサポートすることは可能です。医療としてのシルバーケアと、福祉介護としての生活のケアは、似ているように見えてじつはまったく違うのです。
福祉介護の現場では、認知症のお年寄りが徘徊したり暴れたりすると、ベッドや車いすに縛りつけるなどして拘束してしまいます。本当はいけないことなのですが、少ないスタッフでたくさんのお年寄りのお世話をしなければならないので、やむをえずそうしたことが行われているのです。